ブルース界の貴公子 (ロニー・ジョンソン)

Lonnie Johnson(1894?~1970)

ブルース界の貴公子?

表題は僕が彼の音楽を聞いて勝手につけたものですが、実際の彼の人生は山あり谷あり、「貴公子」と呼ぶには悲しく、「Blues」と呼ぶには華麗な波瀾に満ちたものでした。

アロンゾ・ジョンソン(本名)は1894年ルイジアナ州ニューオーリンズに生まれました。
彼の父親は楽団のメンバーで13人兄弟全員がなにか楽器を演奏できるという音楽一家だったそうです。
彼自身もギターはもちろん、ピアノ、バイオリン、バンジョー、マンドリン、ベースをこなすマルチプレイヤーでした。

10代の頃から兄の一人とニューオーリンズのストーリー・ビル(いわゆる赤線地帯)で演奏するようになり、1917年にはミュージカル・レビューに加わりロンドン巡業をこなしています。
しかし、巡業から帰った彼を待ち受けていたのは1918年大流行したインフルエンザで兄の一人を残し一家全員が死亡するという悲劇の知らせでした。
ストーリー・ビルは閉鎖され家族を失い行き場をなくした彼は北上しセントルイスに拠点を移します。

セントルイスでレコーディングの機会を伺っていた彼はブルーズコンテストに参加し(優勝商品はオーケーレコードとの契約)見事優勝。1926年「Mr.Johnson's Blues」でデビュー。
以後20年間で200曲以上を吹き込むブルーズ界のカリスマとなりました。

バックミュージシャンとしての録音も多く、テキサス・アレキサンダーやベッシー・スミス、ジャズのルイ・アームストロングの録音にもギターで参加しています。

戦後、彼の人気は衰えを見せ、1947年の「Jelly Roll Baker Blues」のヒットを境に第一線から姿を消していきました。
1952年ヨーロッパでのトラッドブームに乗りジャズ・プレイヤーとしてイギリスへ渡ったが長続きせず、1960年ラジオから「ロニー・ジョンソンはどうしているのか?」との呼び掛けで再び音楽界に戻るまでは、ビルの掃除夫として働いていました。
レコーディングの成功と当時の「フォーク・リヴァイバル」ブームに乗り再び脚光を浴びることになったのですが1969年交通事故に遭い、翌1970年後遺症の脳卒中でこの世を去りました。

BluesとJAZZの掛け橋

もし彼がブルーズでデビューしていなかったら、ジャズ・ギタリストとして、もっと高い地位に名をとどめていたかも知れません。
彼がBluesの世界に入ったのは、レコードデビューのため「たまたま」ブルーズコンテストに参加したからであって、その時始めてボーカルをとるようになったと云われています。
彼のジャズフィーリング溢れるプレイは、Tボーン・ウォーカーやB.Bキングらに多大な影響を及ぼし、彼がブルーズを弾いていなかったらアーバンブルーズやモダンブルーズは生まれていなかったといっても過言ではないでしょう。
晩年彼はバラード歌手としての評価を熱望していたらしく、あるフェスティバルでブルーズ歌手の代表として紹介されたにもかかわらずフランク・シナトラを歌ってしまったと云うエピソードも残されています。